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典薬鍼灸師

現在の医療を考えるとき必ず言葉として出てくる「統合医療」。

この言葉はどちらかというと医療者(特に医者)からの上から目線の言葉なので私としては個人的に好きではない。

個人が個人の責任で健康を考え管理するというセルフメディケーション、ホリスティック医療のほうがぴたりとあてはまるような気がするのは個人の好みの問題かもしれない。

これらを調べていると必ず出てくるのが伝統医学という言葉である。

では、日本の伝統医学というのは何をさすのか?

少し歴史を紐解いてみた。

6世紀に入ると日本は、隋や唐と国交を持つ様になった。

推古天皇の時代(608年)、最初の 遣隋使 小野妹子に医学留学生として随行した惠日と福因が、勉学の成果を携えて帰国した。四天王寺や法隆寺創建の頃である。

その後、隋が滅び、唐が興ると舒明天皇2年に最初の 遣唐使 (630)が派遣された。

遣唐使の派遣は、唐の滅亡までの270年間に13回を算え、遣唐使により日本は、悠久の中国文化を吸収し、大国唐に集まる世界の情報を知ることが出来た。

文武天皇の大宝元年(701)に唐の律令制に習って 大宝律令 を定めたことにより初めて法治国家の形を整えることとなった。その大宝律令の中に日本で最初の医療制度に当る 「医疾令」 が定められた。
 

即ち、医師の養成は、13~16才の医師の子弟を医学生に選び、定員40名、修学期間は内科・鍼灸7年、外・児科5年、耳・目・歯4年、按摩・呪い3年、毎年厳しい試験を行い、9年で卒業出来ない者は退学させたとされている。
卒業生は医官に任じ、従八位の官位と禄を与え、中央や地方の行政機関に配属して医療に従事させた。中央官庁は宮内省の典薬寮(くすりのつかさ)で、典薬頭(くすりのかみ)の下に医博士(くすりのはかせ)、医師(くすし)、医生(いしょう)を置いた。

典薬寮は江戸幕府の終わりまでその形が残されていた(このことは別記事でも書いた。)
すなわち鍼師は医師などとともに日本の医療の中核を担い、日本独自の鍼として発展してきた。
こうした背景から、日本の鍼は中国から渡ってきたものには違いないが、1000年以上も日本の医学の中で培われたものであることがわかる。
この典薬寮の改廃後、医制のなかで医学としての地位を確立せず、戦後 福祉・厚生法としてあん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律により、地位を確立しているかのように見える。
しかし、現在の日本の鍼は、江戸時代に盲人の杉山検校こと杉山和一によって作られた管鍼法が主流の技法になっており、日本の盲学校で鍼灸を教えるのは杉山和一が各所につくった鍼治学問所から発展したものなのである。
それまでの鍼医師は、脈、視、聴、舌、蝕の5診により、証をたて、治療、薬の処方をしたとされる。

杉山氏の業績を否定するものではないが、盲目ではこれらの5診を行い本来の鍼医師としての治療を果たすことは難しいといわざるを得ない。

健常者であれば、現代においてはさまざまな情報を読み得ることができ、典薬寮が行ってきたように他の良いものを取り入れ医療として発展する余地がある考える。
本来の典薬寮での鍼医師としての教育を目指し、湯液(漢方薬)について学び、鍼灸の技法を身につけるような教育をする典薬鍼灸師養成施設の出現を望む。

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